母校多治見北高等学校は、1958年4月に陶都中学校旧校舎(木造2階建て)を利用して開校され、
2年後の1960年に3学年720名の生徒が揃いましたが、この時点では校歌が制定されていなくて寂しい
思いを抱いていました。
1961年の夏休み前に学校長より、「作詞を國學院大學名誉教授金田一京助先生にお願いすることが
決まった」との報告を受け、日頃手にしている国語辞典の監修者である金田一先生が作詞されることに
大興奮でした。
当時、国語科の教諭5名の内の2名が國學院大學の卒業生であり、金田一先生の教えを受けていた
ことから尽力をして頂きました。
同年秋に金田一京助先生が北高を来訪されることになり、その機会に講演会をお願いしたところ快諾
して頂き、生徒会主催による金田一京助先生の講演「人間・石川啄木」が開催されました。
当日、生徒会執行部は玄関前にて金田一先生をお迎えしたが、その時の印象は体は小柄ではあるが
背筋がピーンと伸びていて、御歳79歳とは思えない堂々たる風格を感じました。
講演後校長室での懇談の席で、金田一先生から「作曲は誰に依頼するのか?」との質問があり、校長
先生が決まっていないと報告したところ、金田一先生が「よければ、東六に作曲させようか?」の一言。
校長先生以下生徒会執行部を含む全員が、”東六”が誰なのか解らず一同沈黙でした。
まもなく金田一先生から作曲家・高木東六氏との説明があり、全員二つ返事でお願いをしました。
高木東六氏は、管弦楽・オペラ・シャンソン等のクラシックから映画音楽、童謡、歌謡曲の著名な作曲家
であり、当時NHK「あなたのメロディー」、TBS「家族そろって歌合戦」の名物審査員としてお茶の間で
大変人気があったので大歓迎でした。
1961年の年末、金田一先生が約束された通り、作詞・金田一京助、作曲・高木東六による多治見北高
校歌が届けられ、早速音楽部によるお披露目演奏とテープ収録が行われ、2回生の卒業式に歌うことが
できました。
同窓会等の集まりで北高校歌を歌うたびに、当時の高校生活が懐かしく思い出されます。
3回生 古山 邦男