卒業から48年! 第4回同窓会(8回生)

暑い日が続き、秋が来ないのかと思われた、2016年10月2日、オースタット国際ホテル多治見にて、8回生学年同窓会が盛大に行われました。
同窓生112名と恩師、斎藤誠先生、安藤一郎先生、安藤富雄先生にご出席いただき、旧交を温め、豊かな時間を過ごしました。
不思議なもので、自分の年など忘れてしまい、高校生なってしまいます。正にタイムスリップです。 あの頃に戻り、色々な事をいっぱい、どんどん思い出します。
同窓生に会えるのは嬉しいものです。
生きていてこそ楽しい思いも出来るのですが、永眠した人が33名もいます。 冥福をお祈りいたします。
同窓生による講演会が2つありました。 「美しい老後について」川喜田節代さんから、今まさに私たちが直面している、認知症等のお話がありました。 もう手遅れかな? 心配したのは私だけかも。  もう一つは「ブラック企業について」吉田美喜夫さんからお話がありました。 とても深刻な社会問題だと思います。 お二人ともさすが講演のプロで、よく理解でき、勉強になりました。
今回の同窓会は、ちょっと変わっていて、途中、ミニジャズコンサートがありました。
とっても可愛いお嬢さん、粟田麻利子さん(34回生)に何曲か歌っていただき、おしゃれな気分にさせてもらいました。 校歌も一緒に歌うことが出来ました。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、次の4年後を約束し、クラス別の2次会に出発しました。

小嶋清子記(8回生)

旅行・そして女子会!!

  • 昨年から今年にかけて、旅行と女子会がありました。
    女子会はもとより、旅行も都合で参加できず。それぞれ参加された方に寄稿をおねがいしました。
  • 10回生によるプチ修学旅行。
    第1回を平成24年に行い、また行きたいとの声があり、第2回を28年11月に錦秋の京都、奈良へ。依水園、東大寺、春日大社、唐招提寺、平等院、醍醐寺、伏見稲荷とまさに修学旅行。天気にも恵まれ充実した2日間でした。依水園の絵に描いたような美しさ、春日大社の鮮やかさ、醍醐寺の紅葉、伏見稲荷の賑わい、皆、印象深いものでした。中学時の京都・奈良とはひと味もふた味も違う、大人の修学旅行を満喫できました。車中の思い出話など、同級生と同じ時間を共有する素晴らしさ。いくつになっても変わらないものだと、改めて実感しました。(A.K)] 続いて、入学以来半世紀を経て、女子会が発足しました。
  • プチ修学旅行参加してる間、他の女子たちどうしてるかな?会いたいなー。
    旅行や夜の飲み会は無理でも、ランチだったらどうかな? 女子会やろうよ。! 早速、みなさん
    に案内したところ、20名が参加して下さいました。家庭、仕事のあるなか、関東、関西からも時間を作って参加下さいました。場所は、名古屋のホテルの1室。卒業以来初めての方もあるため名札も用意。当日、名札と顔を見比べ、「あー○○さんでしょ?道で会ってもわからんわー」「○○さん全然変わっとらんねー」と、そこらここらで、悲鳴にも似た声、声、声 (部屋を確保しておいてよかったー) それぞれ卒業以来何してたの、今は?を話しているうちに、あっという間の時間切れ。移動しての2次会のティータイム。そこでも、おしゃべりは尽きず夕方で解散。又の機会を約束して・・・あの3年間が、私たちの心のなかに大切に残っていて、卒業以来48年の時間を感じさせないものがあるのだとつくづく感じました。本当に楽しい1日でした。(K.M)]
    以上報告でした。女子会という新しい受け皿が出来て、活動の幅が拡がることがが期待されます。

八橋祐司(10回生)

35回生同窓会開催

平成29年1月2日多治見市宝町にあるルシュールで多治見北高等学校第35回生(1995年3月卒業)の同窓会を開催しました。当日は、恩師の大嶽和好先生、日比野弘美先生、高木雅信先生を含め66名の参加があり、大いに盛り上がりました。
開催のきっかけは、平成27年11月の多治見北高同窓会関東支部総会にたまたま出席していた同級生との会話の中で同窓会やりたいよねと出たことがきっかけでした。半年後の平成28年5月頃から今回の同窓会のために幹事会を立ち上げ準備に取りかかりました。
まず日程は、みんなが集まりやすい正月休みということですぐに決まりました。問題は、同級生の連絡先です。10年以上連絡を取っていないため、同窓会名簿などを頼りに宛先を調べました。
調べてみてわかったのですが、行方不明者が非常に多く、実は自分も行方不明者の一人でした。何度も引っ越しをしているうちに行方不明者となってしまったようです。
文書での通知は、届かない可能性が高いため、あきらめてFacebookやLINEなど使いながら情報を広げる作戦に変更しました。これが以外とうまくいき、なんとか連絡を取ることができました。
幹事会を重ねながら準備を進め、同窓会当日を迎えることができました。会が始まるとあっという間に高校時代に戻ったかのようで、楽しいひとときを過ごすことができました。途中席替えも行い多くの同級生と交流しながら、同窓会は盛況のうちに終了しました。
最後には、幹事へのお礼の言葉もいただき感激するとともに、何年後になるか分かりませんが、次回も開催したいと思いました。もし今回の同窓会に参加できなかった方で、次回の同窓会には是非参加したいという方がみえましたら以下のアドレスまでご一報いただければと思います。
Tajimikita1995@gmail.com
末筆になりましたが、今回の同窓会の幹事でお手伝いいただきました皆様、本当にお忙しい中ご協力いただきありがとうございました。また、同窓会やりましょう!

宮本 賢二(35回生)

衣斐先生を偲ぶ会(多治見北高ハンドボール部OB会)

拝啓 時下ますますご清栄のことと存じます。
去る4月1日、衣斐基夫先生を偲ぶ会を多治見北高ハンドボール部創設時の9回生から12回生で長谷川寿司にて行いました。主役が不在のOB会でしたが、多くの方々にご参加いただき、衣斐先生の思い出を語り合い、また酒の肴にして酌み交わしました。
衣斐先生がいなくても、先生を中心に人の輪ができ新しい繋がりが出来たような気がします。これも先生のお陰だと思いますが、これからもハンドボールで結ばれた仲間を大切にして行きたいと思います。
衣斐先生に感謝!ご冥福をお祈りいたします・・・
敬具

卒業生の今

北高を卒業して40年近くになります。この間、卒業とともに地元を離れてしまった私は、北高の卒業生であることを誇りに思いながらも、ほとんど何も縁を持てずに過ごしてきてしまいました。数人の友人と幾度か会った以外、同窓会のような集まりに顔を出したこともなく、大半の同級生からは、行方知れずと思われているのではないかと気になっていました。

「自主・自律・自学」の精神がしっかり根付いていた北高は、生徒を校則で縛るようなことはせず、生徒の自主性や意思を尊重していました。その考えの基には、生徒に対する「信頼」が流れていたと思います。手に入れた自由を謳歌する以上に、この「信頼」に応えるべき自己研鑚の意識が芽生えたことを覚えています。

それまで野球ばかりしてきた私は、違ったことをしてみたくて、入学と同時にバドミントン部に入部しました。バドミントンは、今でこそ、オリンピックで日本選手が活躍する種目の一つに数えられるようになりましたが、当時は、ややマイナーな部類でした。傍から見ていると案外楽そうに見えるこのスポーツは、実際にやってみるととんでもなくハードなもので、体力強化と足腰の鍛錬のために日常の部活動の大半は走ってばかりいて、帰宅後は、疲れ果てて何もできなかったように思います。それで、2年生になる時に思い切って帰宅部の道を選びました。それからというもの、学校の門を一番先に通り抜けていたような気がします。

初めての一人暮らしを経験した大学生活も大変充実したものでしたが、ここで恩師であるゼミの教授と出会いました。この、メーカー勤務経験のある教授から、「君のキャラはメーカーが一番合う」と何度も諭され、今の会社に入社するきっかけとなりました。

事務系であった私は、これまでに営業部門、管理部門、生産部門など事務職が配属される大半の職場を経験させてもらいましたが、それが今非常に役に立っています。そして、社長になった今、社員への「信頼」を意識した経営を目指しています。

高校生という、人として一番大きく成長する非常に重要な時期を北高で過ごし、恩師から学問だけではない数多くのことを学び、多くの友人と大切な時間を共有することができたことに今更ながら感謝しています。今の私の基礎は、北高時代に培われたと思っています。今回、こうした振り返りをさせていただく機会を与えて下さった関係者の皆様に心から感謝申し上げます。

西戸 徹

 

北高校歌 誕生の思い出

母校多治見北高等学校は、1958年4月に陶都中学校旧校舎(木造2階建て)を利用して開校され、
2年後の1960年に3学年720名の生徒が揃いましたが、この時点では校歌が制定されていなくて寂しい
思いを抱いていました。
1961年の夏休み前に学校長より、「作詞を國學院大學名誉教授金田一京助先生にお願いすることが
決まった」との報告を受け、日頃手にしている国語辞典の監修者である金田一先生が作詞されることに
大興奮でした。
当時、国語科の教諭5名の内の2名が國學院大學の卒業生であり、金田一先生の教えを受けていた
ことから尽力をして頂きました。

同年秋に金田一京助先生が北高を来訪されることになり、その機会に講演会をお願いしたところ快諾
して頂き、生徒会主催による金田一京助先生の講演「人間・石川啄木」が開催されました。
当日、生徒会執行部は玄関前にて金田一先生をお迎えしたが、その時の印象は体は小柄ではあるが
背筋がピーンと伸びていて、御歳79歳とは思えない堂々たる風格を感じました。
講演後校長室での懇談の席で、金田一先生から「作曲は誰に依頼するのか?」との質問があり、校長
先生が決まっていないと報告したところ、金田一先生が「よければ、東六に作曲させようか?」の一言。
校長先生以下生徒会執行部を含む全員が、”東六”が誰なのか解らず一同沈黙でした。
まもなく金田一先生から作曲家・高木東六氏との説明があり、全員二つ返事でお願いをしました。
高木東六氏は、管弦楽・オペラ・シャンソン等のクラシックから映画音楽、童謡、歌謡曲の著名な作曲家
であり、当時NHK「あなたのメロディー」、TBS「家族そろって歌合戦」の名物審査員としてお茶の間で
大変人気があったので大歓迎でした。

1961年の年末、金田一先生が約束された通り、作詞・金田一京助、作曲・高木東六による多治見北高
校歌が届けられ、早速音楽部によるお披露目演奏とテープ収録が行われ、2回生の卒業式に歌うことが
できました。
同窓会等の集まりで北高校歌を歌うたびに、当時の高校生活が懐かしく思い出されます。

3回生 古山 邦男

多治見北バスケットボール部同窓会(西尾司先生の会)

バスケットボール部同窓会は、毎年1月3日に多治見のホテル”オースタット”で立食パーティーを行っております。思い返せば、すでに10年以上続けております。当時、バスケット部の顧問だった西尾司先生(現可児工業高等学校勤務)に指導してもらった31回生から43回生までの男女のメンバーが集まっております。

現在は、家庭をもち、なかなか都合がつかない方もみえますが、それでも「今年は行ける!」等、世代を越えて「多治見北バスケット部」というだけで、みんなが一つになれる場が1年に1度あるということは何よりも価値のあることだと思っております。中には、「憧れだったあの先輩が来る!」と、まるで高校生のようにときめく瞬間があったり・(笑)

西尾先生が常々おっしゃていること、それは「多治見北高校のつながりは財産になる!」ということです。多治見北高校を卒業した諸先輩方や後輩達は、現在、多方面で活躍しており、こういった場を通しての出会いが、自分の人生をさらにステキなものにしてくれています。

また、「みんなでバスケもしよう!」ということで、年に何度か多治見の体育館を借りて、みんなで身体を動かすこともしています。子どもを連れてくる先輩、後輩がいたり・・・「なんだかみんな歳くったなぁ~」なんてことも思いますが、何かそれがいいですよね!笑っちゃいませんか?高校生の時のあいつがパパ?!みたいな。

しかし、こうやって集まることで、みんなが元気でいてくれることが分かるし、こういう仲間っていいなと再確認できることが何よりもありがたいことです。また、2018年1月3日に皆様に会えることを楽しみにしております。

“NO 多治見北バスケット部 NO LIFE”

松田 洋和

多北 創立60周年に寄せて

昭和三六年三月、旧陶都中学校の木造校舎を利用して、自主・自立・自学を校訓に創立された多北に、私は昭和四十五年四月に転勤してきました。赴任して間もなく、雨降りに陸上部の練習で廊下を走らせていた時の事 校務員の吉さんにものすごい剣幕でどなり込まれました。そこで木造廊下を練習に利用する利点等、丁寧に説明した結果、納得してもらい、その後雨降りの練習は廊下でやりました。とても生徒思いで優しい一方、いったん注意がはじまると容赦なく怒る人でしたがら強い印象が残っている卒業生も多いかと思います

心に残っていると言えば、一年生の御嶽登山、加子母村渡合でのキャンプ。二年生の萩・広島方面や瀬戸内海の大久野島での修学旅行等。そして球技大会ではこんなことがありました。ソフトボールの決勝で、職員チームと対戦した三年生のチームが敗れ、最後の球技大会なのにと悔し涙を流す様子を見て、生徒の球技大会に掛ける意気込みが並々ならぬものであると痛切に感じました。

そして多北を振り返るには北辰祭を忘れることは出来ません。毎年語り尽せぬ程多くのドラマが生まれ、卒業生の心にそれぞれ思い出として強く残っていることでしょう。盛り上がったエネルギーを冷やすのに私達教師はひと苦労したものでした。冬のサッカー大会は受験を控えた三年生を始め各学年とも大いに盛り上がってクラス一丸となって寒風吹き荒む校庭で応援している姿。またマラソン大会では、最後の走者がゴールするのを拍手で全生徒が迎える光景等今も深く心に残っています。私にとって打てば響く生徒、中には響きすぎる人も”笑い”囲まれて勤務できた十六年間は思いで深く、忘れる事が出来ない教師生活でした。

転勤後も多くの卒業生と縁があり、各学年の同窓会に声をかけてもらったり、一回生から大学一年生まで参加する東京支部会関西支部会にも参加させてもらい、交流を深めています。関東や関西にお住いやお勤めの卒業生の方々、私が言うの差し出がましいかと思いますが、一度足を運んでみては如何でしょうか。新しい出会いがあるかもしれません。

退職して十七年になりますが、新聞、TVでは在校生や卒業生の活躍を見聞きすることも多く、誇らしく思っています。そして街で声を掛けたり、掛けられたりして昔話の花を咲かせています。最後に卒業式依頼顔を合わせたことのない卒業生にも何処かで出会えることを願うばかりです。

多北万歳 松田嘉久

第16回生 還暦同窓会

2017年1月3日、第16回生の3年ぶりの還暦となる年に同窓会を開催しました。県外に居住している方も多いことから、今まで多治見市内で開催していた同窓会ですが、名古屋駅近くのキャッスルホテルで開催しました。生憎今年は曜日の並びが悪く、公務員の方々は翌日が仕事始めとなっていたためか、大人数というわけにはいきませんでしたが、それでもこの会を楽しみにしている方々に参集していただき、斉藤 誠 先生、松田 嘉久 先生、伊藤 信子 先生の恩師3名をお迎えして楽しい会を開催することができました。

柘植容子さんの迷司会の元、前回幹事長の伊藤守君の乾杯発生の後は、恩師の近況報告に始まって、勝手ばらばらの歓談の後、参加者の1分間スピーチによる現状報告が行われました。さすが、みなさん笑いのつぼを知ってみえるので、会場は笑い、笑い、笑いで溢れかえっていました。中でもダントツはやはり我らが松田先生。松田先生のこの日のエピソードを紹介します。

この会のために中央線に乗ったところ、電車の中で同窓生に出くわし、同窓生に「松田先生はどこにいかれるんですか?」と聞かれたところ、「同窓会に出席する」と答えられたそうです。この同級生は自分たちの同窓会に出席するものと勘違いをして、松田先生を名古屋マリオットアオシアヘ連れて行ってしまいました。松田先生は会場に着いたところで違うことに気がつき、あわててキャッスルホテルに向かわれました。おかげでちょっと遅刻です。でも、この会終了後は次の同窓会のために了山へ向かわれました。タフです。

最後は、次の幹事長の羽柴君の挨拶で会を閉めました。ちなみに今回の幹事長の私は多治見高校に勤務しており、選抜甲子園大会に選ばれた際は、「同情するなら金をくれ」とお願いしました。(応援していただいた方々、ありがとうございました。)

16回生:土本 泰

北辰第17号 〜 北辰つれづれ

今年も東日本大震災復興支 援ツアーが実施された。今回は 釜石まで足を伸ばした。

「津波てんでんこ」をそのまま 共通語に置き換えるとしたら「津波はめいめい」「津波は各自」となる。これを防災 教訓として解釈すると「津波が来たら、取るものも とりあえず、肉親にもかまわずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へ逃げろ」ということになる。

この言葉は、「自分の命は自分で守る」ことだ けではなくて「自分たちの地域は自分たちで守 る」という主張も込められている。緊急時に災害 弱者(子ども・老人)を手助けする方法などはあらかじめ話し合って決めておく事、すなわち「他人を置き去りにしてでも逃げようというのではなく、あらかじめ互いの行動をきちんと話し合っておくことで離ればなれになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れ るのを防ぐ」ことが第一ということである。ばらばらに自分だけでも逃げるという行為はその意 思を共有することで互いを探して共倒れする事のないようにという約束事である。

この「津波てんでんこ」を標語に防災訓練を受けていた岩手県釜石市内の小中学生のうち、当日学校 に登校していた生徒全員が生存し、話題となった。

地震の直後から教師の指示を待たずに避難を開始。「津波が来るぞ、逃げるぞ」と周囲に知らせ ながら保育園児のベビーカーを押し、年寄りの 手を引いて高台に向かって走り続け、全員無事に避難することができた。地元では、奇跡ではなく、日頃の取組の積み重ねだという。

震度七の地震に遭うことは日本のどこにいても覚悟しなければならない。そこで「地震が起こったらどういう行動をとるべきか」大船渡の津波伝承館で体験を聞いてきた。

震度七の地震では全く動けない、体を支えるのがやっと。火を消しに行くことは無理、火事にならなかったらラッキー。揺れがおさまったら、「ガスを切り、まず水を貯める」。この水は「トイレ用」。風呂、バケツ、シンク、桶、何でもいいから 出来る限り水を貯めること。今のトイレは殆どが水洗だから水がなくては流れない。水洗トイレ一回にバケツ二杯が必要。

次に「ブレーカーを落とす」必ず停電するからその後の通電後に火事になることが多い。

次に家の中でも靴を履く。裸足だとガラスで足を切る。医者にもすぐにはかかれない。一日の半分は夜。暗い中で地震に遭うのも五十パーセントの確率。足元には気を付ける。

又、地震が起こる前の準備も怠りなくしたいも の。しかし、できていない人が多い。(5回生)